番外メモ 平忠度の歌

番外メモ 

百人一首83番歌の作者・藤原俊成(定家の父)と平忠度(たいらのただのり)

百人一首には武士の歌は選ばれてませんが、藤原俊成に師事した平忠度は、1183年、平清盛と共に死出の旅に向かう時、俊成に和歌集を託しました。


平清盛が、六波羅に火をはなち焼き払って、安徳天皇をいただいて西へと落ち延びる時

平家物語・巻第7・忠度都落より)

清盛の末弟の平忠度は、京の五条の藤原俊成の邸を訪ねました。

懐から歌集を取り出し、せめて一首でも勅撰集に入れてほしいと頼み、別れの挨拶をして従者と共に西へと去っていきました。翌年、平忠家は、一ノ谷の戦いにおいて討ち死にしました。



のちに俊成は、勅撰集「千載(せんざい)集」に(よみ人知らず)として、忠度の歌を選んでいます。


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故郷の花


さざ波や
志賀のみやこは
荒れにしを
昔ながらの
山桜かな

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千載和歌集・巻1・春歌上66


昔、天智天皇が都を移した志賀は、壬申の乱で荒れてしまったが、
長等(ながら)の山には、今も山桜が咲き誇っている。


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京都には「俊成町」があり、平忠度の歌碑は滋賀長等山の長等神社にあるそうです。


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