番外メモ 源氏の始祖たち
65番歌作者相模の父・清和源氏・源頼光は摂津源氏の始祖です。
百人一首1番歌、飛鳥時代の天智天皇の歌に始まり、時は流れて
紫式部や清少納言が活躍した後の貴族の恋の歌などが続いた後、65番歌に清和源氏の娘相模が登場しました。
田辺聖子さんの「小倉百人一首」に
藤原道長が土御門邸を新築した時に、頼光が家具一切を献上し、その美麗をきわめた出来ばえに、道長が大いに喜んだという。
世間があっと驚く金持ちぶりであった。
その娘であるから、相模は何不自由なく育ったお姫さまである。
と書かれています。
65番歌は、相模が永承6年(1051年)後冷泉天皇の内裏歌合に出席し勝利した時の歌です。
久々の大がかりな歌合せでした。
田辺聖子さんは、この歌合を
(王朝の落日近き最後の輝き)のようだと書いてます。
百人一首1番歌に書きましたが、
672年の壬申の乱により、天皇の系統は天智天皇から勝者の天武天皇系に移りました。
奈良時代末期頃に天智天皇系の光仁天皇が即位してからは天智天皇系が続きます。
光仁天皇の皇子の桓武天皇は平安京に遷都し、桓武天皇の皇子達からは桓武平氏や嵯峨源氏がうまれます。
清和源氏は、清和天皇の孫が源姓を賜った臣籍降下に始まります。
「源氏」の由来は、
臣籍降下の際「源」みなもとを辿れば天皇家であるということから名付けられ、
「平氏」の由来は、
桓武天皇が建設した平安京の「平」にちなんで名付けられたということです。(諸説あります)
65番歌作者相模の父源頼光には色々な伝説が伝わっています。
996年に大江山の酒呑童子を討伐したのも源頼光といわれます。(異説有り)
左京一条に邸宅を持ち、関白藤原兼家、藤原実方、藤原行成らと交流があり、娘は藤原道綱の妻の一人になっています。
また、59番歌作者赤染衛門の夫大江匡衡とも交流があり、赤染衛門が源頼光を詠んだ歌があるそうです。
源頼光は、但馬国、伊予国、摂津国の受領を歴任し武力財力を蓄えました。
源頼光は「頼光四天王」と呼ばれる強者たち、「足柄山の金太郎」のモデルとされる坂田金時らを従えました。
源頼光は、藤原道長の全盛時代には側近として活躍し、
貴族としての教養も持ち、和歌を詠み勅撰和歌集に選ばれています。
源頼光の弟・源頼信は武勇に優れ、平忠常の乱を鎮定して源氏の東国進出の基礎をつくりました。
のちに鎌倉幕府を開く源頼朝へと続く河内源氏の始祖となるのは、源頼光の弟源頼信です。
「今昔物語集」巻25-11に、
源頼信が武威をもって、盗人から人質(子供)を取り返した逸話が書かれています。
同「今昔物語集」巻25-12に、
源頼信の息子・源頼義(よりよし)が馬泥棒を射た逸話が書かれています。
歌合が開かれた永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけて、陸奥の豪族安倍頼時とその子貞任(さだとう)・宗任(むねとう)らが朝廷への納税を拒否し反乱、前九年の役が起こりました。
陸奥は、太平洋側を安倍氏が、日本海側を清原氏が支配していましたが、
朝廷が源頼義(源頼信の子)・源義家(八幡太郎義家・源頼義の長男)を派遣して清原氏の助けを得て平定しました。
この戦いの結果、安倍氏が滅び、清原氏が東北の覇者となりました。
1083年から1087年にかけて後三年の役が起こり、東北の覇者清原氏が、藤原清衡と源義家に敗北しました。
前九年の役と後三年の役は、活躍した源氏が東国に勢力を築くきっかけとなりました。
藤原清衡は、東北の支配者となり朝廷からも事実上奥州支配を容認されて奥州藤原氏の始まりとなりました。
奥州の藤原清衡は、独自の安定した政治を行い、阿弥陀如来を祀った中尊寺金色堂を建てて2度の戦いで亡くなった人々を弔いました。
奥州藤原氏2代目の基衡は毛越寺を建て、3代目秀衡は無量光院を建て仏教都市を築きました。