「堀河院艶書合」を主催した堀河天皇は第73代天皇。
(1079-1107)
白河天皇の第2皇子。
母は中宮賢子(藤原師実の養女。実父は源顕房)で、1084年に亡くなりました。
異母弟の皇太子実仁親王が死去したため、1086年に立太子し、即日父白河帝の譲位を受けて8歳で即位し堀河天皇となりました。
1093年、13歳の時、篤子内親王(32歳、白河院の妹)を中宮としました。
堀河天皇の治世は、父白河上皇が藤原氏の勢力を抑えて政治の実権を握っていましたが、関白藤原師通や藤原通俊、大江匡房らに補佐され善政を行ったといわれます。
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1083年に東北で「後三年の役」が起こり、陸奥守・八幡太郎義家(源義家、河内源氏3代目)が鎮圧しました。
(堀河天皇は1086年に即位)
白河上皇は乱平定後、この争乱を私戦として恩賞を行わず義家の陸奥守を解任しました。
八幡太郎義家は私財を投じて兵士たちを労ったといわれ東国武士の信望を得て、源氏と東国武士の結びつきが強固になりました。
義家は、1098年に陸奥守時代の功績が認められて正4位下に叙され院昇殿も許されました。
義家は、息子・源義国が叔父・源義光らと対立した常陸合戦のさなかの1106年に68歳で亡くなりました。
堀河天皇は、1099年に荘園整理令を発布。同年、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生まれ、同年、皇太子としました。
堀河天皇は、和歌を好み、近臣の源国信・藤原仲実・藤原俊忠、源俊頼らと堀河院歌壇を形成して活発な和歌活動を行いました。
「堀河百首」を編纂し、1102年に「堀河院艶書合」を主催しました。
また音楽も好み、宮中で小規模な管絃の会を繰り返し催しています。
1107年、在位のまま病により崩御しました。(29歳)