(76)わたの原 漕ぎ出でてみれば 久方の

百人一首76番歌

わたの原
漕ぎ出でてみれば
ひさかたの
雲居にまがふ
沖つ白波

「詞花集」雑下382

by 法性寺入道前関白太政大臣
ほっしょうじのにゅうどう・さきのかんぱく・だじょうだいじん)
藤原忠通
1097~1164
藤原北家
書の法性寺流の始祖

 

大海に舟を漕ぎ出して沖のかなたを見ると、雲と区別がつかないほどに雄大な白波が立っている。

 

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「詞花集」詞書
「新院、位におはしましし時、海上遠望ということを詠ませ給ひけるに詠める」

新院=崇徳院(在位1123~1141)
崇徳院が在位中の歌合(1135年)で、『海上遠望』という題で詠んだ歌。

 

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藤原忠通は、幼少期から和歌を好み、若い頃に74番歌源俊頼、75番歌藤原基俊らに師事し、自邸でも歌合を沢山催しています。

忠通は、鳥羽天皇崇徳天皇近衛天皇後白河天皇と4代にわたり摂政関白を務めています。

忠通は、崇徳天皇17歳の時に娘聖子(皇嘉門院、14歳)を入内させましたが皇子は生まれませんでした。
親王の親(外戚)になることが出来ず、政治は白河院鳥羽院による院政が行われました。

 

崇徳天皇は近衛左局との皇子・重仁親王を即位させたいと思い、藤原忠通との関係は悪化、
藤原氏内でも内紛が起こり、後白河天皇の代に保元の乱が起こります。(1156年)

 

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保元の乱」1156年

摂関の地位をめぐって、
藤原忠通 VS 藤原忠実・頼長(忠通の父と弟)

天皇の位をめぐって、
後白河天皇 VS 崇徳院(後白河天皇の同母兄)

それぞれに源氏と平氏がついて武力衝突。

後白河天皇側に、
源義朝平清盛

崇徳院側に、
源為義(源義朝の父、死刑)
平忠正(平清盛の叔父、死刑)

 

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保元の乱後、1159年「平治の乱

勝者の後白河天皇とともに戦った源義朝平清盛が対立し「平治の乱」が起こり、
源義朝が敗れて平清盛が勝利しました。

源義朝の三男で嫡子(正室の長男、跡継ぎ)の源頼朝は、継母の助命嘆願を受けて伊豆に島流しに。

頼朝の弟、今若、乙若、牛若(のちの源義経)たちは、母・常磐御膳が平清盛に嘆願し、それぞれ僧として寺に預けられました。

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後白河天皇側の藤原忠通は、保元の乱崇徳院に勝利しましたが、乱後に摂関家保全に尽力し、
1158年、摂関職を子基実に譲り政治から引退しました。

1162年に法性寺に出家、2年後に亡くなりました。(68歳)

 

忠通の直系子孫は、五摂家として明治維新まで摂政関白職を独占しました。

 

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76番歌は、平安王朝から武士の世へと向かう変わり目の時代に、
藤原北家氏長者で和歌に書に精通し、
摂政関白太政大臣を務めた藤原忠通が、
娘を入内させた崇徳天皇の歌合で詠んだ歌でした。

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