百人一首83番歌
世の中よ
道こそなけれ
思ひ入る
山の奥にも
鹿ぞ鳴くなり
「千載集」雑中1-151
「述懐百首の歌詠みはべりけるとき、鹿の歌とて詠める」
by 皇太后宮大夫俊成
藤原俊成
1114~1204
藤原定家の父
藤原北家・御子左家の歌道の祖
「千載集」の撰者
この世には辛いことから逃れる道が無く、隠棲しようと思い詰めて入った山の奥にさえ、鹿が哀しげに鳴いている。
俊成の祖父忠家は、
67番歌周防内侍に『手枕』を差し出した人。
俊成の父俊忠は、
堀河院の艶書合で72番歌紀伊に恋歌を贈った人。
俊成の妻は、
鳥羽天皇皇后藤原得子(美福門院)に仕えた美福門院加賀。
俊成は、
1123年、10歳の時、父・藤原俊忠が亡くなり、義兄藤原顕隆(葉室家)の養子になり葉室顕広と名乗りました。
歌は、藤原基俊(75番歌)に師事し
1140年、27歳の頃、百人一首83番歌にとられた述懐百首を詠みました。
「述懐百首」は、人生の不遇を嘆き、1140年に23歳で出家した円位(のち西行)の影響もあり出家への迷いを詠んだ百首でした。
その後、美福門院加賀と再婚してから上級の官位を授けられるようになり出世していきました。
1156年、保元の乱
1159年、平治の乱
1162年、藤原定家誕生。
1167年、公卿に昇進し、藤原姓に復帰し俊成と改名しました。
最終官位は正三位・皇太后宮大夫。(皇太后は、後白河院の皇后藤原忻子)
1176年、病により出家し、釈阿と号しました。
1177年、歌壇での地位を争っていた藤原清輔が亡くなりました。
1183年、後白河院の院宣を受け、1188年に『千載集』を撰進し、名実ともに歌壇の第一人者となりました。
『平家物語』巻七「忠度都落」に、平忠度の歌が(詠み人知らず)として「千載集」に採られた逸話が書かれています。
1192年、鎌倉幕府成立。
1203年、後鳥羽院より90賀宴を賜りました。
1204年、「祇園社百首」「春日社歌合」と最後まで詠作を続け、同年、91歳で生涯を閉じました。
門下の歌人は、
定家、寂蓮、藤原家隆、後鳥羽院、九条良経、式子内親王、俊成卿女(孫)など。