(86)嘆けとて 月やはものを 思はする

百人一首86番歌

嘆けとて
月やはものを
思はする
かこち顔なる
我が涙かな


「千載集」恋5-929

by 西行法師
1118~1190
佐藤義清(のりきよ)


嘆けよと、月が私にもの思いをさせるのか、いや、そうではない。けれど、澄んだ月をみるとつい涙がこぼれ落ちてしまう。


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西行は、代々の武人の家の生まれで、鳥羽上皇に仕えた北面(院の御所の北面に詰めて警備にあたる)の武士でした。
この時、平清盛と同僚でした。

また、徳大寺家(始祖は藤原公実の息子実能)の家人でもありましたが、
1140年、23歳の時に世を捨て妻子を捨てて出家しました。


平安末期、1156年保元の乱、1159年平治の乱が起こり世の中は荒れていました。


徳大寺家と親しかった西行は、藤原公実の娘・待賢門院(璋子、鳥羽天皇の皇后)と、お子の崇徳院の悲運に心をいため、
崇徳院保元の乱で配流された讃岐で亡くなられると、四国へわたって院の霊を慰め歌を捧げています。

よしや君
昔の玉の
床とても
かからむ後は
何にかはせむ


平氏が興り栄華を誇り、やがて没落していく時代にあって、西行は諸国を放浪しあちこちに草庵を結びながら歌人達と交流し歌を詠みました。

詞花集などの勅撰集に200首ほど撰ばれ、家集に「山家集」があります。


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江戸時代後期に上田秋成が著した短編集「雨月物語」の『白峰』に、
西行が讃岐で崇徳院の霊を弔う話が書かれています。


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古今集」の中の
『三夕(さんせき)の歌』と呼ばれている歌のひとつに西行の歌があります。


心なき
身にもあはれは
知られけり
鴫立沢の
秋の夕暮れ


1664年、崇雪という外郎(ウイロウ)売りが、西行の句に登場する「鴫立沢」を探して歩きまわり、大磯の海岸近くの渓流を鴫立沢とし小さな草庵をつくり、石仏の五智如来を祀りました。

小さな草庵はのちに
落柿舎(嵯峨野)、無名庵(近江)と共に
日本三大俳諧道場のひとつ「鴫立庵」に発展しました。


「鴫立庵」の近くの明治時代から続く和菓子屋新杵には、島崎藤村吉田茂も愛した西行饅頭があります。


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西行の逸話はとても多く本も沢山あります。

明恵上人の弟子喜海が著した「栂尾明恵上人伝記」に、西行が話したとして記されている言葉があります。


一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、
一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。
我此の歌によりて法を得ることあり。


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後鳥羽院口伝」によると、後鳥羽院は、西行は「歌よみ」、定家は「歌作り」と評したということです。


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