百人一首95番歌
おほけなく
憂き世の民に
おほふかな
わが立つ杣(そま)に
すみぞめの袖
「千載集」雑中1137
by 前大僧正慈円
1155~1225
藤原忠通(76番歌)の息子
崇徳院后聖子の弟
九条兼実の同母弟
後鳥羽院后任子の叔父
九条良経(91番歌)の叔父
身の程をわきまえないことですが、辛いこの世を生きる民に広くあまねく覆いかけましょう。比叡山に住み始めた私の僧衣、墨染めの袖を。
おほけなく=身分不相応にも
杣(そま)=杣山
樹木を植えて材木をとる山
ここでは比叡山のこと
墨染め=僧衣
「住み始め」を掛けています。
おほふ=覆う、ここでは、仏の加護を祈り、仏の教えを説いて、人々を救うこと。
慈円は、父・関白藤原忠通と、10歳のときに死別し、11歳で仏門にはいりました。
この歌は、20代または30代の若いとき、災害、疫病や戦乱で荒れた世の中に詠んだ歌で「おほけなく」に決意が感じられます。
慈円は、のちに大僧正となり、天台座主となりましたが、政変が起きて辞し、のちまた復座し、4度座主になりました。
鎌倉幕府を開いた源頼朝とも交流があり和歌の贈答をしています。
後鳥羽院の歌会や歌合に出席し、和歌所寄人となっています。
慈円が隠居した後、1219年に鎌倉3代将軍源実朝が暗殺され、九条道家の子頼経が鎌倉幕府の第4代将軍となりました。
慈円は、公武融合と九条家を中心とした摂政政治を推しますが、後鳥羽院は倒幕を目指しました。
この頃、慈円が、皇室のあるべき姿や道理をまとめた「愚管抄」を著したのは、後鳥羽院に倒幕の企てを放棄していただきたいという思いからといわれます。
源平合戦で三種の神器が安徳帝とともに壇ノ浦に沈み、勾玉と神鏡は拾い上げられますが、神剣はついに皇室に戻ってきませんでした。
「愚管抄」には、
『文武の二道にて国主は世をおさむるに』
『今は宝剣も無益になりぬるなり』
『これは武士の、きみの御守りとなりたる世になればそれに代へて失せたるにやと覚ゆるなり』
とあり、
宝剣を失ったのは、
今は武士が武力で国を治める時代、天皇は武を放棄し文で治める公武融合の時世だからと書いています。
(神剣は、のちに伊勢神宮から献上されて今に伝わります。)
1221年の承久の乱後、大懺法院(大成就院)を整備して、朝廷と幕府、公武のための祈祷を再開しましたが、1225年、病のため71歳で没しました。
歌人として「新古今集」以降の歴代勅撰集に入り、家集に「拾玉集」があります。
法然 1133~1212
慈円 1155~1225
親鸞 1173~1263
法然は浄土宗の開祖
慈円は天台座主を4度
親鸞は浄土真宗の宗祖
法然は、平成23年に天皇(今の上皇陛下)から8つ目となる大師号「法爾(ほうに)」を下賜されています。
親鸞は、明治9年に明治天皇から「見真(けんしん)大師」を下賜されています。