(97)来ぬ人を 松帆の浦の 夕なぎに

百人一首97番歌


来ぬ人を
松帆(まつほ)の浦の
夕なぎに
焼くや藻塩の
身もこがれつつ


「新勅撰集」恋3-849
『健保6年内裏歌合恋歌』

by 権中納言定家
藤原定家
1162~1241
百人一首の撰者
83番歌・俊成の息子
新古今集」の撰者のひとり
「新勅撰集」の撰者


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松帆の浦の夕なぎの時に海人が焼いている藻塩のように、私の身も、来てはくれない人を、くる日もくる日も待ち焦がれています。


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97番歌は、健保6年は誤りで、4年の順徳天皇主催の歌合で詠んだ歌。
対戦相手、順徳天皇の歌に勝利した歌です。


万葉集」940番・長唄『松帆の浦』が本歌


定家が55歳の時に
松帆の浦(淡路島)で恋人を待ち続ける女心を詠んだ歌。


藻塩は、塩を作るために焼く海草のこと。


「松」と「待つ」が掛けられ
「こがれ」に、藻塩の焼きこがれと、恋いこがれ、が掛けられています。


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定家が、百人一首にこの歌を撰んだ理由には様々な説があります。

織田正吉さんの説によると、
百人一首の中に「風」の歌の連鎖があり、
嵐からそよかぜ(98番歌・風そよぐ)になり、最後に97番歌「夕なぎ」で風が止んで鎮まるようにと撰んだということです。

承久の乱隠岐の島に流された後鳥羽院の怒りの歌に呼応して、この歌を撰んだという説です。


後鳥羽院の歌

我こそは
新島守よ
隠岐の海
荒き波風
心して吹け


隠岐の海の荒き波風が鎮まるように、後鳥羽院の怒りが鎮まるようにと祈りを込めて「夕なぎ」の歌を撰んだとの説。


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定家が、万葉集長歌を本歌とするこの歌を撰んだ理由は何だったのでしょうね。

万葉集「松帆の浦」

名寸隅の 船瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に
朝なぎに 玉藻刈りつつ
夕なぎに 藻塩焼きつつ
海人おとめ ありとは聞けど 見に行かむ よしの無ければ
ますらをの 心はなしに
手弱女(たわやめ)の 思ひたわみて
たもとほり 我はぞ恋ふる 船梶を無み


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794年、平安京遷都

1156年、保元の乱
1159年、平治の乱

1162年、定家誕生

1167年、平清盛太政大臣
1180年、以仁王挙兵、敗死

1181年、定家、御所に参内して式子内親王(89番歌)に会う

1185年、壇ノ浦で平家滅亡
1192年、源頼朝征夷大将軍

1205年、新古今集(定家・家隆・有家・飛鳥井雅経源通具)成立

1220年、定家、内裏歌会で後鳥羽院の勅勘を受け、公の出座・出詠を禁じられる

1221年、承久の乱後鳥羽院、順徳院が配流となる

1232年、定家、後堀河天皇より新勅撰集撰進を命じられる

1233年、定家、出家、明静

1235年、定家、宇都宮入道蓮生の嵯峨中院山荘の障子色紙形に百人一首を書く

1239年、後鳥羽院崩御(60歳)

1241年、定家逝去(80歳)

1333年、鎌倉幕府滅亡

1868年、明治元年

皇居が京都から東京へ移る


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承久の乱以前、定家は後鳥羽院に和歌の才能を見いだされ「新古今集」の撰者の一人となります。

二人は歌を巡って意見が対立することもあり、
ある日、宮中の歌会で、
定家の詠んだ歌に後鳥羽院が怒り、
後鳥羽院は定家に謹慎処分を命じ絶交しました。


*その時の定家の歌
「野外柳」

道のべの
野原の柳
したもえぬ
あはれ嘆きの
煙くらべや


・・定家は何故この歌を詠んだのでしょうね・・


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後鳥羽院の怒りの説は様々あります。

官位昇進の遅延を訴えた歌に怒った説、
歌会の数年前に定家の家の庭のしだれ柳を後鳥羽院が召し上げてしまったのを恨んだ歌に怒った説、
西園寺公経九条道家ら親幕派とゆかりのある定家についに怒りを爆発させた、

さらには「日本書紀」を引用して深読みをする説もあります。



その後、後鳥羽院承久の乱を起こし、定家とは最期まで会うことはありませんでした。

定家は70歳になった頃、後堀河天皇の勅命を受けて「新勅撰集」を単独で編纂しました。


鎌倉幕府への配慮から、後鳥羽院、順徳院の歌を「新勅撰集」に入れられなかった定家は、
敬愛を込めて、私撰の百人一首の最後に二人の歌を撰んだのだといわれています。


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794年、桓武天皇平安京に都を移され、

定家(1162~1241年)が生きた時代

1192年、鎌倉幕府成立し平安時代が終焉しましたが、

1331年、鎌倉時代末期に光厳(こうごん)天皇が現在の京都御所の前身・土御門東洞院殿で即位なさり

1392年、後小松天皇の在位時に南北朝が統一され

1868年、明治になるまでずっと、平安京が御所、皇居でありました。

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