百人一首99番歌
人もをし
人もうらめし
あぢきなく
世を思ふゆゑに
もの思ふ身は
「続後撰集」雑1199
by 後鳥羽院
1180~1239
高倉天皇の第4皇子
「新古今集」を編纂
人は、あるときは愛おしく
また、あるときは恨めしく思われる。
あじけない世を思うためにあれこれ思い煩う私にとっては。
をし=愛し
1180年
以仁王が挙兵、敗死した年、
後鳥羽院は、高倉天皇の第4皇子(安徳天皇の異母弟)として誕生しました。
1183年
平家が木曽義仲に追われて6歳の安徳天皇を奉じて西海に逃げたあと、祖父の後白河法皇の命で神器なしで後鳥羽天皇が4歳で即位し、2年間、2人の天皇が在位しました。
1185年 壇ノ浦で平家滅亡
1192年
後白河法皇が崩御。
後鳥羽天皇が源頼朝を征夷大将軍に任命し、鎌倉幕府が成立しました。
1198年
後鳥羽天皇は土御門天皇に譲位して院政開始(19歳)
土御門帝・順徳帝(土御門帝の弟)・仲恭帝(順徳帝の子)の3天皇の時代、承久の乱まで23年間院政を執りました。
33歳の時、百人一首99番歌となる歌を詠みました。
定家ほか4人の歌人に20首ずつ和歌を詠ませ、自身も20首を詠んで百首とし
その中の「述懐」という題で詠んだ5首の中の1首が99番歌。
後鳥羽院は、多種多芸、文武両道にすぐれ、自ら刀を作り、旅行を好み、「わがふるさと」と水無瀬(大阪府北東部)に離宮を造営し足繁く通いました。
今、その地は水無瀬神宮となりました。
1205年
後鳥羽院が撰進を命じた「新古今集」が成立しますが、この後も編纂は続きました。
後鳥羽院は
「和歌は世を治め、民をやはらぐる道である」と説いたそうです。
見渡せば
山もとかすむ
水無瀬川
夕べは秋と
なに思ひける
by 後鳥羽院
1219年
源実朝が暗殺され、後鳥羽院はこの頃から北条氏の執権幕府、鎌倉幕府討幕を計画します。
1220年
藤原定家が、内裏歌会で後鳥羽院の勅勘を受け、公の出席・出詠を禁じられました。
後鳥羽院は、隠岐で「新古今集」を手入れしたり、都と手紙による歌合をしたり、仏への信仰と和歌を詠む日々を過ごしました。
1239年
配流されてから18年後、60歳で隠岐で崩御されました。
後鳥羽院は、刀剣作りを続け、自らの印として刀に16葉の菊紋を彫り込み、それが今でも天皇家の家紋「菊のご紋」として使われ続けています。
後鳥羽院をお慰めするために島の人々が始めた「牛突き」といわれる闘牛は、今でも隠岐島で伝承されています。