(100)ももしきや 古き軒端の しのぶにも

百人一首100番歌

ももしきや
古き軒端(のきば)の
しのぶにも
なほあまりある
昔なりけり


「続後撰集」雑下1205

by 順徳院
1197~1242
第84代天皇
後鳥羽天皇の第3皇子
母は平教子(平清盛の姪)
承久の乱後、佐渡に配流された


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ももしき=百磯城=宮中


宮中の古い軒端に茂るしのぶ草を見るにつけて、かつての盛時がしのばれる
あまりある思いは尽きない
懐かしい昔のことである


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1192年に鎌倉幕府が成立した後の
1197年、順徳院が誕生しました。


父・後鳥羽院
穏やかな兄・土御門帝(第1皇子)を16歳で譲位させて
文武に秀でた弟・順徳帝(第3皇子)を14歳で即位させました。


順徳天皇は、藤原定家に師事し、頻繁に歌合、歌会を主催しました。

100番歌は、順徳天皇が20歳の時に詠んだ歌です。


順徳天皇は、歌論書「八雲御抄(やくもみしょう)」を著し、承久の乱後、佐渡に流されてからも加筆修正し、藤原定家に送っています。


「八雲御抄」は、6部6巻からなる大書で、後世の歌学に大きな影響を与えました。


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後鳥羽院順徳天皇は討幕を企て、
1221年、順徳天皇は子・仲恭天皇(4歳)に譲位して、父と共に承久の乱を起こしました。


承久の乱で敗戦し、後鳥羽院隠岐へ、順徳院は佐渡へ流されました。


土御門院はこの乱に無関係で、幕府の咎めもありませんでしたが、父と弟が流され、ひとり都で安閑と暮らすわけにはいかないと、みずから土佐へ移りました。

(土御門院は、1231年、37歳で崩御


幕府は、即位して80日足らずの仲恭天皇を廃位とし、後鳥羽院の直系子孫を除外して傍系の後堀河天皇を即位させました。

仲恭天皇は、1234年、17歳で崩御


後堀河天皇は10歳だったため、父親の守貞親王上皇後高倉上皇となり院政を執りました。

後高倉院は、1223年に崩御


1232年、後堀河天皇は、四条天皇(2歳)に譲位し後堀河院となりました。

(1234年、後堀河院は、23歳で崩御

(1239年、隠岐後鳥羽院が60歳で崩御

(1241年、藤原定家が80歳で逝去)


1242年、2月、不慮の事故により、四条天皇が12歳で崩御しました。


皇統が途絶え、11日間の空位期間の後、
次代の天皇には、
後鳥羽院の血統から、後嵯峨天皇が撰ばれて即位しました。


1242年、9月
順徳院は、21年間過ごした配流地で46歳で崩御しました。

断食により自ら命を絶ったと伝わっています。


順徳院の辞世の句は、

思いきや
雲の上をば
余所に見て
真野の入り江にて
朽ち果てむとは


順徳院の御陵は、京都大原三千院の裏手、父・後鳥羽院の大原陵に合祀されているそうです。


百人一首メモノート終わりです。
平安時代の歴史の勉強になりました。
和歌の素晴らしさと、最期の順徳院の歌、貴族 VS 武士、で終わったのが印象に残りました。

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