宣下 後鳥羽上皇
1205年成立
歌数 1978首
1198年、
19歳で帝位を土御門に譲った後鳥羽院は、近臣たちと和歌を詠み始め
『正治2年院初度百首』を催して、九条家歌壇を吸収し、さらに広く歌人を集めて後鳥羽院歌壇を形成した。
『初度百首』で、後鳥羽院は若手の新風歌人であった定家の歌に感銘を受け、定家は内裏への昇殿、院御所への昇殿を許されるようになった。
後鳥羽院は『後度百首』『千五百番歌合』などの歌合や歌会を催し和歌活動をさかんに行った。
1201年、
和歌所を設置して11名の寄人を任命、その中から、
通具・有家・定家・家隆・雅経・寂蓮の6名に「新古今集」撰集下命を下した。
(寂蓮は撰進前に没)
1205年、
仮名序、清書未完のまま、撰集完了を祝う竟宴(きょうえん)が行われた。
そのため、この年を新古今集の成立と表記されることが多い。
以降、改訂整備が続けられた。
仮名序は良経が起草執筆、真名叙は儒者の親経が執筆し良経が監修したとされる。
良経は、1206年に急逝し「新古今集」の完成をみることはなかった。
1219年、
後鳥羽院と親交の篤かった鎌倉幕府3代将軍源実朝が暗殺され、北条氏(北条義時・政子)の執権幕府になると
後鳥羽院は、鎌倉幕府討幕(=北条氏の排除)に力を注ぎ込むようになる。
1221年
承久の乱を起こすが敗れて、隠岐へ配流されてしまう。
この時、武家政権が確立した。
順徳院は佐渡へ、土御門院は土佐へ配流され、歌壇は崩壊した。
鎌倉幕府は、京都守護を廃して、
京都鴨川の東、五条と七条の間の地に六波羅探題を設置し朝廷を監視、京都周辺の政務と裁判を統括するものとした。
幕府は、仲恭天皇を退位させ、後堀河天皇(10歳)を立太子礼を経ず即位させた。
後鳥羽院は、隠岐で歌を詠み、都の旧臣たちから歌を召して歌合、遠島御歌合を行うなど、再び和歌に心を傾け
1236年頃に
「新古今集」から約380首を除いて「隠岐本新古今集」を成立させた。
(後鳥羽院は隠岐でも刀剣作りを続け、自らの印として刀に16葉の菊紋を彫り込み、それが今でも天皇家の家紋「菊の御紋」として使われ続けている)