12番目の勅撰和歌集「続拾遺集」

続拾遺和歌集

勅撰和歌集の12番目
十三代集の4番目

宣下 亀山院(大覚寺統

撰者 二条為氏

1278年成立

1459首

主な歌人
為家 43首
嵯峨院 33首
定家 29首
西園寺実氏 28首
俊成 22首
為氏 21首
信実 21首
亀山院 20首
九条基家 20首
一条実経 20首
後鳥羽院 19首
良経 19首
宗尊親王 18首


最初の歌
巻1春

詞書 春立つ心をよみ侍りける

あら玉の
年は一夜の
へだてにて
今日より春と
立つ霞かな

by 前大納言為家


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1266年、宗尊親王が将軍を解任され、惟康親王(3歳)が7代将軍となる。
1272年、後嵯峨院崩御
1274年、宗尊親王が逝去。
1275年、藤原為家(定家の子)逝去。
1276年には真観が逝去するなど、多くの歌人たちが他界した。

御子左家の藤原家では家督相続をめぐって争いが起こり、二条家、京極家、冷泉家の三家に分裂した。


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1274年 文永の役
元軍が対馬壱岐筑前に上陸襲来。
翌年、北条時宗が元使5人を討伐。
幕府が九州探題を置く。

幕府は兵を博多に集めて筑前筥崎(はこざき)から今津に至る海岸に石垣を築くなどして元軍の襲来に備えた。

1276年、亀山院が藤原為氏(為家の子)に勅撰和歌集の撰進を下命。
1278年「続拾遺集」が撰進を終えた。

1281年、弘安の役
元軍舟3500艘、兵10万が来寇したが、暴風雨や食糧不足により元軍は撤退した。

二度の元軍の侵攻への防衛戦では、幕府は戦っても得るものはなく、御家人たちに恩賞を与えることができず、御家人たちは困窮して幕府への不満がつのっていった。

1289年、鎌倉7代将軍惟康親王(26歳)が、次代の久明親王持明院統)と交代する形で将軍を解任され京へ送還される。
京に戻された惟康親王は出家して嵯峨で63歳で逝去した。

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後嵯峨法皇崩御後、
皇位継承や皇室領をめぐって第3子(後深草天皇)と第7子(亀山天皇)の争いが起き、
皇統が「後深草系の持明院統」と「亀山系の大覚寺統」の2皇統に分裂した。

鎌倉幕府の仲介による「両統迭立(てつりつ)」の協約が成立し、両統が相互に皇位につくことになるが、
のち、南北朝の争乱が起きる。

1393年、室町幕府3代将軍足利義満の主導で南朝を合体し、現在に至る。

両統迭立
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