「風雅和歌集」
勅撰和歌集の17番目
十三代集の9番目
宣下 花園法皇
撰者 光厳上皇
1349年成立
20巻 2211種
京極派主導の歌集。
玉葉歌風を継承している。
京極派の為兼が亡くなり伏見院が崩御した後、伏見院中宮の永福門院(西園寺 鏱子)は、伏見院の遺志を受けて歌合をたびたび主催した。
永福門院と為兼の姉•為子は、歌合の判者もつとめている。
永福門院は後伏見院、花園院に和歌を指導し、光厳院をはじめとする京極派の後進歌人を育てた。
「元弘の乱」(1331〜1333)
「建武の新政」(1333〜1336)
を経て室町時代、
大覚寺統の南朝•97代•後村上天皇と、
持明院統の北朝•2代•光明天皇、
皇統両立
1342年
永福門院が72歳で崩御
花園院ご執筆の真名序と仮名序が記された。
寄人は、正親町公蔭(きんかげ)、玄哲(げんてつ、二条為基)、冷泉為秀。
花園院と光厳院の親撰のため、奏覧の竟宴は行われなかった。
(1346年に竟宴が行われたとも)
☆「親撰体」は
新古今集、続古今集、風雅集、新続古今集の4集。
☆臣下が撰進した勅撰集は「奏進体」
二十一代集の中で、自由に感動を歌う歌集は異彩を放ち優れた評価をされる反面、発想や表現の類似化も起こった。
つづく••
京極派の永福門院の歌を絶賛する人も多いようですし、花園院の真名序、仮名序も読んでみたいです。
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