足利義満
1358〜1408
将軍在職 1369〜1395
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1358年(1歳)
第2代将軍足利義詮と側室・紀良子との間に生まれる。幼名は春王。
1361年(4歳)
細川清氏らが南朝に加担して京都に攻め入った。
父義詮は、後光厳天皇を奉じて近江に逃れ、義満は播磨の赤松則祐のもとに逃れる。
1362年
北朝が京都を奪還し、義満も京都に戻る。
新しく管領になった斯波義政に養育される。
東国を管轄する「鎌倉府」が設置される。
鎌倉府の長官は鎌倉公方と呼ばれ、尊氏の4男・基氏の子孫が代々世襲する事になる。
鎌倉公方を補佐する関東管領は、上杉氏が世襲する事になる。
1366年
貞治の変
斯波氏が失脚し、細川頼之が管領となる。
後光厳天皇より義満の名を賜る。
1367年12月
父義詮が亡くなる。
1369年
第3代将軍となる。
1374年
日野業子を正室として迎える。
1375年
勅撰和歌集を執奏し、後円融天皇が宣下。
(1384年に「新後拾遺和歌集」が完成する。)
1378年(20歳)
京都の室町に「花の御所」と呼ばれる新邸を造営する。
=室町幕府と称される。
朝廷から様々な権限や外交、支配権を奪い、幕府の管轄下に置く。
有力守護大名たちの統制にも乗り出す。
1390年
土岐氏の乱
土岐康行を討伐
1391年(33歳)
明徳の乱
山名氏が幕府に破れて勢力を大幅に削減される。
山名氏は、全国66カ国の内、11カ国の守護から3カ国になる。
1392年(34歳)
明徳の和約
南朝の後亀山天皇が義満の呼びかけに応じて京都に帰り、北朝の後小松天皇に譲位、三種の神器を渡し、南北朝が統一される。
1394年(36歳)
将軍職を子の義持に譲って隠居するが、政治の実権は義満にあった。
同年
武家としては、平清盛に次いで二人目である太上大臣となる。
1395年(37歳)
出家して道義と号する。
武家、公家、さらに宗教界の支配を目指したといわれる。
1397年(39歳)
京都北山に広大な山荘を造営し、金閣寺を建てて住む。
1399年(41歳)
応永の乱
反乱を起こした守護大名・大内義弘を討伐する。
1404年(46歳)
倭寇の取り締まりを求めてきた明と国交を結ぶ。
勘合貿易を始めて莫大な利益をあげる。北山文化が発展。
1408年(51歳)満49歳
室町幕府の最盛期を築いたが、病に倒れて亡くなった。