玉津島社(勅撰集おわり)

最後の勅撰和歌集「新続古今集」の最終巻、神祇の歌に詠まれた「玉津島社」は、和歌三神のひとつ。

和歌三神は、
住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂

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和歌の三神は諸説あります。
住吉明神・玉津島明神・天満天神
または
衣通姫柿本人麻呂山部赤人
とする説もあります。

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新玉津島社は、玉津島社から勧請して京都の俊成邸内に創建された衣通姫尊を祀る神社。
勧請したのは、藤原俊成、または頓阿。



聖武天皇が玉津島に行幸した時に
景観に感動し
「明光浦(あかのうら)」と名付け
景観を末長く守り、玉津島の神・明光浦の御霊を祀るようにとの詔を発しました。

その時、聖武天皇随行した山部赤人が詠んだ長歌1首と反歌2首が「万葉集」に収められています。


沖つ島
荒磯(ありそ)の玉藻
潮干(しほひ)満ち
い隠り行かば
思ほえむかも

by 山部赤人
from 万葉集918


わかの浦に
潮満ち来れば
潟(かた)を無み
葦辺をさして
鶴(たづ)鳴き渡る

by 山部赤人
from 万葉集919



「玉津島社」のご祭神は四柱

稚日女尊(わかひるめのみこと、天照大神の妹)

息長足姫尊神功皇后、おきながたらしひめ)

☆明光浦霊(あかのうらのみたま、聖武天皇の勅命による合祀)

衣通姫尊(そとおりひめ)



衣通姫は、第19代允恭(いんぎょう)天皇の妃、または皇女。

心優しく麗しい美女で、衣を通して光り輝いたことから「衣通姫」と呼ばれます。


日本書紀」から 衣通姫の歌

我が夫子(せこ)が
来るべき夕(よひ)なり
ささがねの
蜘蛛の行ひ
是夕(こよひ)著(しる)しも

by 衣通姫
from 日本書紀


とこしへに
君も遇(あ)へやも
鯨(いさな)取り
海の浜藻の
寄る時々は

by 衣通姫
from 日本書紀




第58代光孝天皇の夢枕に「衣通姫」が現れて歌を詠み、天皇の病を治された為、勅命により玉津島社に衣通姫が祀られました。

その時の歌↓

 立ちかえり
 またもこの世に
 跡垂れむ
 その名うれしき
 和歌の浦

 by 衣通姫
 from 古今集序註



衣通姫伝説は色々あり、
衣通姫」は、木梨軽皇子の妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ、允恭天皇の皇女)とする説があります。


兄の木梨軽皇子と情を通じ、それが原因で木梨軽皇子は失脚した説。

木梨軽皇子と穴穂皇子(のちの安康天皇)との皇位継承争いで陥れられた説。



玉津島社に「衣通姫」を祀る詔勅を発した光孝天皇は、
即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を継承させないという意思を示した天皇です。
(結局は、息子が臣籍から復して宇多天皇になりましたが)


光孝天皇は、皇位継承争いを避けたい、という思いから
陥れられた木梨軽皇子衣通姫(軽大娘皇女)の御霊を慰め祀ったのだという説もあります。


本当はどうだったのでしょうね。



勅撰和歌集の最後は、遠い昔、万葉集山部赤人の歌と、日本書紀の「衣通姫」に辿り着きました。


和歌はミステリアス、奥が深いですね。


勅撰和歌集最後の歌をもう一度


巻20 神祇(じんぎ)2143

 ささがにの
 蜘蛛の糸すぢ
 代々(よよ)かけて
 たえぬ言葉の
 玉津島姫

by 二条為重


神祇2144

 たのむかな
 わが藤原の
 都より
 跡たれそめし
 玉津島ひめ

by 前太上大臣良基


応仁の乱で和歌所が焼失して叶わなかった次作の勅撰和歌集、読んでみたかったな。



勅撰和歌集二十一代集の勉強終わり.。.:*・゚☆.。.:*・゚