室町3代将軍足利義満の嫡男・足利義持が6歳の頃、南北朝が統一されました。
義持は、9歳で4代将軍となりましたが、実権は父・義満が握り、幕府の体制は父義満により強化されました。
父義満は、京都北山で政務を行いましたが、義満は義持より弟の義嗣を寵愛し、兄弟の間には溝ができました。
1395年、義満が急死し、義持は、老臣の斯波義将と共に幕府の政策変革を行います。
まず、守護人事の更迭をします。
☆河内、紀伊、越中の守護
義満により
畠山基国の次男・義則に
↓
義持により
畠山基国の長男・満家に
☆安芸の守護
義満により
山名満氏から山名熙重に
↓
義持により
山名熙重から山名教孝に
☆和泉の守護
義満により
二木義貞から奥御賀丸に
↓
義持により
奥御賀丸から細川基之・頼長に
など、義満の近習優遇を否定し更迭。
幕府を本来のあるべき姿に戻し、また、嫡系優先主義は、義満が晩年次男の義嗣を偏愛したことへの反発があったといわれます。
日明貿易については、
1411年、明の勅使を追い返して入京をさせず、明との国交を断絶しました。(1432年に復活)
1412年、後小松天皇が躬仁(みひと)親王に譲位して院政を敷きました。
これにより、明徳の和約、両統迭立は反故にされました。
消滅した南朝に仕えていた武士達は、しばしば旧南朝の皇族たちを担いで反乱を起こしました。
これを後南朝といいますが、皇統に復帰することはありませんでした。
義持の正室裏松栄子と後小松院の典侍で称光天皇の生母・日野西資子は従姉妹であり、
義持は後小松院と良好な関係にあったようです。
称光天皇の素行には問題がみられ、義持は躬仁を(身に弓があるのはよろしくないとして)実仁に変更させています。
義持の弟・義嗣は、
1416年の「上杉禅秀の乱」に連座して、1418年に成敗されました。
1418年、称光天皇の女房が懐妊しますが、天皇が身に覚えがないということで騒動が起こります。
騒動の解決以降、調査を行わずに院宣を発したとして仙洞御所(後小松院)の院宣は幕府・義持の管理下に置かれることとなりました。
反対に、嫌疑をかけられた伏見宮家の貞成王と義持の関係は親密となりました。
比較的安定した治世を行っていた義持は、1423年に、将軍職を息子の義量(よしかず、17歳)に譲り、出家して道詮(どうせん)と名乗り、大御所として幕政に関わりました。
1425年、義量が急死しましたが、将軍職は空白のまま
1428年、義持は43歳で亡くなりました。