itukaの雑記帳

Bonne Journee

室町6代将軍足利義教

足利義教(よしのり)
1394〜1441
将軍在職 1428〜1441


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1394年 誕生
父は3代将軍足利義満
兄は4代将軍足利義持

1408年
青蓮院に預けられ仏道
僧侶時代の名は義円


1425年
室町5代将軍義量が亡くなり将軍不在となる。

1428年
次の将軍が決まらないまま、4代将軍義持が亡くなる。

重臣たちが、石清水八幡宮の神前でくじを引き、義教が将軍に選ばれる。

義教は還俗して室町幕府6代将軍に就任。

同年、称光天皇崩御し、
8親等以上離れた続柄の伏見宮家の彦仁王が後小松上皇の猶子となって、1429年に即位し後花園天皇となる。

1428年
正長の土一揆
徳政(借金の取り消し)を求めて、民衆の集団的蜂起が各地で起こる。


1429年〜1439年
大和永享の乱
大和(奈良)で発生
興福寺大乗院衆徒と興福寺一条院衆徒の対立に端を発した戦乱。


各地で起こる戦乱を収めるのに、幕府がとても苦慮した様子が「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱(呉座勇一著)」に詳しく書かれています。

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義教は将軍専制を志向し、室町幕府の役職は次第に形を整えられ変わっていった。

鎌倉幕府のときから存在していた奉行人は、「奉公衆」として、将軍の私的顧問(武官)となった。

財政政策においては勘合貿易を再開させた。

1433年
義教が執奏し、後花園天皇宣下による「新続古今集」の撰進が始まった。


天皇と室町殿が一体となって文化活動をリードする・・権威向上プログラムの一環』
『室町殿にとって天皇を持ち上げることが自らの権威を固めることになる』
天皇の権威を自らの荘厳にフル活用』と、「乱世の天皇 秦野裕介著」に書かれています。

持明院統・崇光皇統の伏見宮家出自の後花園天皇は、実父・貞成親王から「花園天皇が著した誡太子書」を進上され、学問に精励しました。

後花園天皇は向上心高く、のちに治罰の綸旨も発給して幕府をバックアップし反乱を鎮圧し世を収めようとしますが・・


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1438年
永享の乱

関東で、鎌倉公方4代目の足利持氏が、関東管領上杉憲実と幕府に敵対して「永享の乱」が起こった。


永享の乱の鎮圧に苦慮した義教は朝廷を頼り、後花園天皇が持氏討伐の綸旨を発給した。


鎌倉公方持氏は、
1429年の後花園天皇即位に伴い元号が「正長」から「永享」に変わったにも関わらず新年号を使わず古い年号「正長」を使い続け、朝廷を蔑ろにする行為があった、
などが朝敵とみなす理由とされた。



治罰の綸旨は、義満、義持の時代から60年ほどは発せられませんでしたが、永享の乱で復活しました。
足利幕府の地位、統制力の低下を表しています。


1439年
持氏は降参を申し入れたが、その子の義久もろとも自害に追い込まれ、永享の乱は収束し鎌倉府は一時消滅した。

同年、義教が執奏し後花園天皇が勅命した「新続古今和歌集」が完成。
これが最後の勅撰和歌集となった。

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義教は比叡山延暦寺を制圧、九州も統治、数々の改革を行ったが、些細なことで人々を処罰するなどして「万人恐怖」といわれる。


永享の乱後、義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、
1440年、持氏の残党や下総の結城氏朝・持朝父子などが、持氏の遺児を奉じて幕府に対し挙兵し「結城合戦」が起こる。


1441年、
結城父子は敗北し討死、
持氏の遺児のうち、春王丸、安王丸は義教の命を受けた長尾実景により命を絶たれ、永寿王丸(のちの足利成氏)は京都に送られた。


戦火は鎌倉公方支配下にあった奥州にも飛び火し、持氏の叔父でありながら永享の乱で幕府側に寝返った篠川公方・足利満直が結城氏を支持する諸将に討たれた。


(江戸時代、曲亭馬琴が著した『南総里見八犬伝』は、父親と一緒に結城側で戦った里見義実が、死を決意した父親と別れて落ち延びるところから始まる。)


義教は、守護大名家の家督相続にも介入し采配を振るった。

有力守護大名の赤松満祐は、分家の赤松貞村との家督争いに義教が介入してくる動きに対し不安と怒りを覚えた。


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同1441年(義教48歳)

結城合戦」後、公武の有力者たちは、将軍を招いて戦勝祝の宴を開いた。


赤松満祐・義康親子も、結城合戦の祝勝の宴を開くとして義教を邸に招いた。


宴に相伴した大名は、
管領細川持之、畠山持永、山名持豊、一色教親、細川持常、大内持世、京極高数、山名熙貴、細川持春、赤松貞村ら、義教の介入によって家督を相続した者たち、
他に公家の正親町三条実雅など。
庭先には将軍の警備衆が控えていた。

宴の最中、武者数十人が座敷に乱入、
義教は刺殺され、酒宴は、犠牲になる者、逃げ惑う者、乱闘の修羅場となった。

赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げ、乱は収まった。


幕府は義教の子義勝を後継者に立て、山名持豊を中心に赤松追討の大軍を編成し、本領播磨に逃れた赤松満祐を攻めた。

後花園天皇(23歳)による赤松満祐追討の綸旨が発給された。

赤松満祐は一族と共に自害し、赤松氏惣領家は滅んだ。


将軍専制を目指した義教没後、将軍権力は衰退し、有力守護大名たちの権力は強化されていくことになった。


義教が行った処分、討伐エピソードは多岐多様。
政治は万人恐怖、暗殺されたのは自業自得などといわれた義教は、各地で巻き起こる戦乱を何とか力で抑え込もうとしたようですが、
結局、義教亡き後、弾圧された面々が復活して、さらに戦乱が各地で頻発することになります。
そして、応仁の乱へと向かっていきます。


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1446年
関東諸将の要請で持氏の遺児・足利成氏が鎌倉帰還し第5代鎌倉公方となり鎌倉府が復活した。

後に、成氏は、8代将軍足利義政のとき、上杉氏と対立し「享徳の乱」を起こすことになる。

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