室町7代将軍足利義勝

足利義勝
1434〜1443
在職 1442〜1443

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1441年
嘉吉の乱で父・6代将軍足利義教が暗殺され、家督を継ぐ。
(1442年に7代将軍に任じられる)

管領細川持之が補佐をする。

同1441年
幕府は、後花園天皇に治罰の綸旨を求め発給され、赤松満祐を討伐。


京都を中心に一揆、嘉吉の土一揆が起き、
幕府は一揆の圧力に負け、徳政令を発布する。
(嘉吉の徳政令


1443年
義勝は、病(赤痢)により夭逝。


1449年、8代将軍に義政が就任するまで、4年9ヶ月、将軍職は不在となる。

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1442年
細川持之が病で管領職を退き、畠山持国管領となる。

細川持之は同年に43歳で亡くなり、細川家の家督は嫡男の細川勝元が継ぐ。


(「応仁の乱/呉座勇一著」には、この頃の大和、興福寺周辺の内乱状態が書かれています。)


同年
加賀守護・冨樫(とがし)家で兄弟の内乱が勃発する。


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加賀守護 冨樫家 兄弟争い
(加賀嘉吉 文安の内乱)

☆6代義教により
 兄・冨樫教家が守護職を剥奪され、弟・冨樫泰高が守護となる。

☆義教没後
 兄教家が弟泰高に守護職の返還を要求
 ↓
 兄弟(教家、泰高)が対立する。
(加賀嘉吉文安の内乱)


細川持之管領職を退き、畠山持国管領となると、
畠山持国は、兄・教家の嫡男・成春を加賀守護に任じた。


兄弟の戦いで、
弟・泰高と臣下の山川八郎が敗れて、合戦に勝った兄・教家が入京すると、
山川八郎は、京都畠山持国邸襲撃を企てる。

事前発覚し、弟・泰高が咎められるが、臣下の山川家之・八郎親子が切腹することにより泰高は赦される。


1445年
兄教家を支持する畠山持国管領を辞職し
弟泰高を支援する細川勝元管領に就任すると、泰高派が勢力を盛り返し合戦となる。


管領細川氏と畠山氏が、兄弟それぞれを支持したことが争いを長期化させた。


1447年
泥沼化していた兄弟争いは、幕府の介入により半国ずつ守護を分け合うことで和解が成立する。

兄教家の子・成春が加賀北半国守護

弟泰高が加賀南半国守護となる。

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それ以前の1443年
禁闕の変(きんけつのへん)

後花園天皇の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件)

吉野南朝の復興を唱える勢力、後南朝が御所に乱入し、三種の神器のうち剣璽(けんじ)の2つを奪った。

幕府は神剣を奪還したが、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、奪い去られた。

約15年後の1457年
「長禄の変」

嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣たちが後南朝から八尺瓊勾玉を奪い返し、北朝へ戻した。


翌年
赤松氏は、功績により管領細川勝元によって加賀北半国守護に任じられ
冨樫成春が守護を解任された。

嘉吉の乱後の赤松満佑討伐の中心だった山名宗全は、赤松氏分国の大半を得ていて、復活した赤松氏と山名氏は仇敵であった。

次代将軍義政のときに、畠山氏の家督争いが勃発・・

そこに、細川勝元山名宗全が絡み・・

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加賀北半国守護となった赤松氏に対抗するため、冨樫家の兄弟争いは和解、統一される。
(その後も内乱は起きる)


大和、興福寺周辺は内乱状態がおさまらない。


加賀では、後に加賀一向一揆が起き、冨樫氏は倒される。

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7代将軍義勝の在職期間8ヶ月

6代将軍義教に弾圧された者たちが復活したり、
同門の中で家督争いや権力争いが頻発、
管領同士も対立、
味方になったり敵になったり入れ替わりも激しくなる。

4年以上空席の後の次代8代将軍義政のときは、さらに複雑な人間関係になる。

そして・・
(なんで10年もやってるのか分からない)応仁の乱へ。

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