室町8代将軍足利義政

足利義政
1436〜1490
将軍在職 1449〜1474


1436年
義政誕生
父は6代将軍足利義教、母は日野重子

1441年
6歳
嘉吉の乱により父義教が暗殺され、兄義勝が7代将軍となる。


1443年
9歳
兄・足利義勝が夭逝し、足利氏の家督を継ぐ。

同年
禁闕(きんけつ)の変
後花園天皇の禁闕(皇居内裏)への襲撃事件)

吉野南朝の復興を唱える勢力、後南朝が御所に乱入し、三種の神器のうち剣璽(けんじ)の2つを奪った。

幕府は神剣を奪還したが、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、奪い去られた。


1449年
14歳
宣下を受け、室町幕府第8代将軍となる。

畠山持国細川勝元山名持豊などの重臣と母・日野重子が政治を行う。


年不詳
義政より10歳年上の側室・今参局(いままいりのつぼね)との間に女子が誕生。
今参局は政治に参加するようになる。


1454年〜(1483年)
享徳の乱
関東で起こった内乱。
28年間に渡り断続的に続く。


1454年
山名宗全が、赤松則尚(赤松満祐の甥)の帰参をめぐって足利義政の不興を買い、失脚する。



1455年
20歳
正室日野富子と結婚。


1457年
「長禄の変」
禁闕の変(1443年)から約15年後、
嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣たちが後南朝から八尺瓊勾玉を奪い返し、北朝へ戻した。


翌年
赤松氏は、功績により管領細川勝元によって加賀北半国守護に任じられ
冨樫成春が守護を解任された。

嘉吉の乱後の赤松満佑討伐の中心だった山名宗全は、赤松氏分国の大半を得ていて、復活した赤松氏と山名氏は仇敵であった。

山名宗全は、細川勝元が赤松氏再興を認めたことに反発する。

(一方、天野忠幸氏によると、赤松氏再興の動きは山名氏を牽制しようとする足利義政の主導で、細川勝元は、山名宗全の赦免と引き換えに赤松家再興を認めさせられた、と見る説もある、と、「乱世の天皇」に書いてあります)


足利義政は、討伐命令を出したり赦免したり、家督をすげ替えたり、決定が二転三転することがあり、政治勢力争いは混迷を増す。


1459年
24歳
富子の子が生後間もなく亡くなると、今参局が呪ったせいだといわれて今参局と側室たちは処罰された。


世間は、水害、干ばつ、地震などの異常気象、大飢饉、大勢の餓死者がでる。

土一揆も頻発、幕府の政策は効果があがらない中、
義政は、花見や酒宴、室町殿の修復や新殿を造営する。


1464年
29歳
義政は将軍職の引退を願い、出家していた弟の義視を還俗させて次の将軍に定める。


1465年
30歳
妻・富子が男子(後の9代将軍義尚)を出産。

同年
後花園天皇が譲位し
後土御門天皇(24歳)が即位。

義政は、飛鳥井雅親を推して22番目の勅撰和歌集の撰集を企画(応仁の乱が起こり頓挫する。)

義政の和歌のひとつ

 やがてはや
 国おさまりて
 民安く
 養ふ寺も
 立ちぞ帰らん


1466年
「文正の政変」
義政は側近層を失い、幕政は、細川勝元山名宗全ら諸大名による連合政権となる。
諸大名の権力争いが激化。


1467年
32歳
応仁の乱」勃発。
戦乱は全国に広がる。

1470年
後花園院崩御

1473年
38歳
応仁の乱の東軍・細川勝元と西軍・山名宗全が亡くなる。

義政は隠居し、
嫡子・義尚が、9代将軍に就任。


1476年
41歳
室町邸(花の御所)が戦火により焼失。
難を避けるために内裏から室町邸に避難していた後土御門天皇足利義政・義尚は、近くの小川御所に移動する。
戦乱中、天皇三種の神器と共に住居を幾度か移している。


1477年
42歳
対立者の和睦が成立し「応仁の乱」が終結

朝廷の御所・土御門内裏の修繕が行われる。

1479年
後土御門天皇が、修復の完了した土御門内裏に還幸。


1482年
47歳
東山に銀閣寺を建て始める。


1485年
50歳
義尚と対立し、出家。


1489年
54歳
義尚が六角討伐の陣中で病死。

((銀閣寺のホームページには、
義政は悲しみ、その年の新盆に現在の「大文字の送り火」の原型となる送り火を焚き、義尚の精霊を送った、と書かれています、諸説あります))

義政は政治に復帰するが病に倒れる。


1490年
55歳
義政は、義視の嫡男を養子として迎えて次の将軍と定め、
銀閣寺完成前に病で亡くなった。


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応仁の乱
義政の次の将軍職をめぐり、
 〈弟・義視を押す側〉
   VS
 〈息子・義尚を押す側〉
将軍後継者争いと同時に、守護大名たちの争い、豪族達の争いが各地で起こり、11年間続いた戦乱。

応仁の乱で、京都へ集結し戦っていた守護大名に代わり領国を治めていた守護代たちが勢力を強め、
守護大名を倒して領国を手に入れる者が現れる。

この後、武力で〈守護大名〉に勝利し、領国を支配する〈戦国大名〉が各地に出現すると、世は下剋上、戦国時代となる。


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銀閣寺」
和歌や水墨画など文化を愛でた義政は、応仁の乱で焦土となった東山に、風流なわびさびの趣のある山荘(銀閣寺)の造営を始める。

義尚に政務を譲り、東山に移り住む。

東山で、義政は、足利将軍家の明宝を収蔵し、優れた才能や技術を持つ者を傍らにおき趣味に没頭した。

戦乱で金銭的余裕はなく、松の木や蓮の花などを他の寺院から奪ったが、義政没後に元の寺院に取り返されたという。

義政は銀閣寺完成前に亡くなったが、東山文化を後世に残した。


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改元
後土御門天皇即位により
「寛正(かんしょう)」から「文正」に改元

「応仁」1467〜1469
   改元理由=兵革
「文明」1469〜1487
   兵革・星変
「長享」1487〜1489
   兵革・疾疫・火事
「延徳」1489〜1492
   天変・疾病
「明応」1492〜1501
   疾疫・天変


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「文明」から「長享」への改元が朝廷で行われた時、幕府では管領が不在で「改元吉書」が行われず、幕府の奉書は20日以上旧年号「文明」が使われた。

「長享」から「延徳」への改元時も、改元奉行、年号勘者、改元費用をめぐり問題があり、さらに占いも絡みスムーズには進まなかった。
ということが「戦国の貧乏天皇」に書かれています。


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1500年、後土御門天皇崩御し、後柏原天皇践祚

応仁の乱後の混乱で、後柏原天皇即位の礼が行われるのは21年後になる。

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