足利義尚
1465〜1489
将軍在職 1474〜1489
義尚が生まれる前年、1464年
父は実弟・義視を将軍後継者とし、細川勝元を後見人とした。
1465年
義尚誕生
父・8代将軍足利義政と
正室・日野富子との次男(長男は夭逝)
義尚は、伊勢貞親(義政の側近)に養育される。
1466年
「文正の政変」で、伊勢貞親が幕政から排斥され追放される。
義尚の母・日野富子は、
義視の後見者の細川勝元に対抗するため
山名宗全の味方となる。
*注
従来の定説。近年は、日野富子は、足利義尚の庇護を山名宗全に依頼はしていない説があります。
*注おわり
「文正の政変」
1467年〜1477年
「応仁の乱」
畠山家の家督争いにおいて
畠山政長(細川勝元が味方)
VS
畠山義就(山名宗全が味方)
ここから、応仁の乱が始まる。
細川勝元は、将軍、天皇・院を味方につけ、
山名宗全率いる西軍は幕府軍と戦うことになる。
山名宗全の討伐を命じる後花園上皇の「治罰の院宣」が下される。
将軍足利義政が、伊勢貞親を政務に復帰させると、
(文正の政変以前、将軍後継者になっていた足利義視を、義政の子の足利義尚を後見していた伊勢貞親が追放しようとした)
東軍(管領細川氏)方だった足利義視は西軍に出奔し義政と対立、将軍職に就くことはなくなった。
1473年
義尚、室町幕府第9代将軍に就任
政務は、義政・富子夫妻と富子の兄・日野勝光が行う。
応仁の乱の東軍西軍の総指揮官であった細川勝元と山名宗全が亡くなり、戦いは下火になる。
幕府、日野富子は、東西軍の和睦交渉をすすめる。
1482年
父義政が東山に居を移す。
1483年
義尚、「新百人一首」を撰定する。
義尚は、さかんに歌会を主催し、歌集の編纂もする。
1486年
父義政が政務を引退
1487年
「長享・延徳の乱」
義尚は、六角高頼を討伐するため、
管領・細川政元など諸大名や奉公衆約2万の軍勢を率いて近江へ出陣。
戦いは長期化し、その間、幕府内での内輪もめや一向一揆が起こる。
義尚は、鈎に滞陣中、一般の政務をつとめながら歌会を開催するなどしていたが、
次第に寝込むことが多くなり、
陣中に医師を呼んだ。
1489年(25歳)
遠征から一年半、
義尚は危篤に陥り、母富子が鈎に駆けつけるが、回復せずに陣中で亡くなった。
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