itukaの雑記帳

Bonne Journee

室町10代将軍足利義材(よしき)

足利義材(よしき)
1466〜1523
(1498年〜改名して義尹、よしただ)
(1513年〜改名して義稙、よしたね)


将軍在職
 1回目 1490〜1493
 2回目 1508〜1522


1466年 誕生
 父は、足利義視
 (8代将軍義政の弟)
 母は、日野良子
 (日野富子の妹)


1467年〜 応仁の乱

父・義視が、その兄8代将軍義政と対立して東軍から出奔し西軍につく。


1473年
義政の子・足利義尚が9代将軍となる


1477年
応仁の乱終結

1478年
前将軍義政と義材の父義視の和議が成立


1487年
義材は義尚の猶子として元服


北条早雲の嫡男・北条氏綱が誕生)


1489年
9代将軍義尚が近江で在陣中に逝去

1490年
前将軍義政が逝去

義材が第10代将軍に就任

1491年
父義視が逝去

義材は、義尚の遺志を継ぎ、六角高頼征伐を再開、近江に出陣して六角高頼を追放した。


1493年
明応の政変

分裂状態が続いていた畠山氏の義豊(畠山義就の後継者)を討伐するため、畠山政長らを率いて河内国に赴く。

義材が京都を留守にしている間に
京都の細川改元日野富子伊勢貞宗らが、
清晃(=義澄)を11代将軍に擁立し
義材を廃するクーデターを起こす。

義材派が粛清され、京都は騒然、
後土御門天皇は、一時は抗議のため退位を表明した。


義材と畠山政長幕府軍に敗れて
政長は自害、義材は京都龍安寺に幽閉された。


義材は、京都を脱出して
畠山政長の領国である越中に下向して政権をたてた。

義材は、将軍職を奪われ各地を流浪することになり「流れ公方」とよばれる。


(この頃、北条早雲が「伊豆討ち入り」1497年頃に伊豆平定。)

(この頃、斎藤道三が誕生。1494年、または1504年生まれなど諸説あり)


1495年
義澄が第11代将軍宣下される


1496年
日野富子(57歳)死去

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1498年
東海で「明応地震」が起こる。


1498年
義材は義尹と改名
越前朝倉氏のもとへ移る

1499年〜
義尹は、延暦寺根来寺高野山の僧侶と共に上洛を目指すが
坂本で六角高頼に敗れて近江に逃れ、
近江で細川政元に敗れて
周防国大内義興のもとに逃れる。


1500年
後土御門天皇崩御
後柏原天皇践祚
即位式は21年後となる)


1507年
「永正の錯乱」
細川家の内乱。
細川政元が、養子細川澄之と家臣薬師寺長忠に暗殺され
政元の3人の養子の間で細川家が分裂状態になる。
細川澄元が制圧した。

(越後では、守護・上杉房能が守護代長尾為景に殺害される)


1508年
義尹は大内義興細川高国と共に進軍し京都を占領、
11代将軍義澄、管領細川澄元を追放し
将軍職に復帰した。

細川高国家督継承が承認された。

(甲斐では、守護・武田信虎が叔父の油川一族を滅ぼす)

今川氏親遠江守護に任じられる)

(この頃、松永久秀=弾正、誕生)


1511年
元将軍足利義澄が、細川澄元とともに入京を図るが急死する。


今川氏親が、遠江での戦いで、尾張守護・斯波義達に勝利)

(信長の父・織田信秀が、尾張で誕生)


1513年
義尹は、細川・大内・畠山の諸氏と対立
一時京都から近江に逃れる。

この頃、義稙と改名

義稙は、細川氏ら諸氏との和解が成立して京都に戻る。


(1516年、北条早雲が相模三浦氏を滅ぼし相模を平定)

(1517年、今川氏親遠江を制圧)


1518年
大内義興が領国平定のため、管領を辞して領国へ帰国
畠山尚順も領国へ帰国


1519年
追放された細川澄元が阿波で挙兵、摂津に侵攻、細川高国を破る。

足利義稙は、勝利した細川澄元と手を組み、家督を認め、
細川高国が追放される。


等持院の戦い」
細川高国は六角氏の協力を得て細川澄元を破る。


澄元家臣の三好之長は処刑され、澄元は阿波に逃げ帰り後に病没した。


(同年、北条早雲韮山城で死去。後継者は北条氏綱後北条氏2代目)



1521年
義稙は、側近と奉公人数名と共に
和泉国堺に出奔

奉公人のほとんどは京都に留まり義稙を見限った。


予定されていた後柏原天皇即位式は、細川高国の準備により予定通りに挙行された。


細川高国は、11代将軍義澄の遺児・義晴を擁立

足利義晴が第12代将軍となる。


1523年
義稙は再挙を図るが、各地を転々とした末、阿波国で、満56歳で亡くなった。


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