足利義澄
1479〜1511
将軍在職
1495〜1508
1486年
伯父の足利義政により天龍寺香厳院の後継者に定められる。
1487年
上洛
剃髪して香厳院を継承し
清晃と称する
1489年
9代将軍義尚が逝去
1490年
足利義政が逝去
足利義材(のち義尹、のち義稙)が第10代将軍に就任
1493年
「明応の政変」で義材が失脚
清晃は義遐(よしとお)と改名、さらに、義高と改名。
(この頃、北条早雲が伊豆討ち入り、1497年頃に伊豆平定、堀越公方は消滅)
1495年
宣下され、第11代将軍に就任する。
1496年
日野富子が死去
1498年
東海で「明応地震」
1502年
義澄に改名
1507年
「永正の錯乱」で管領細川政元が殺害され、細川家は内乱状態となる。
1508年
元将軍義尹と大内義興が軍勢を率いて入京し細川高国と手を組む。
義澄と管領細川澄元ら近臣は京都から脱出し
近江甲賀に逃れる。
義尹が将軍に復帰、細川高国が管領となる。
義澄は将軍職を解任される。
永正の錯乱での管領
細川政元
↓
1507年、細川澄之
↓
1507年−1508年、細川澄元
↓
1508年、細川高国
1511年
義澄は、将軍復帰を目指して戦っていたが、急病で亡くなった。享年32(満30歳)
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