室町12代将軍足利義晴

足利義晴
1511〜1550
将軍在職
1522〜1547


1511年 
近江蒲生郡水茎岡山城で誕生
父は11代将軍足利義澄
幼名は亀王丸

生まれて間もなく
播磨守護・赤松義村の元へ預けられ養育される。


父・義澄が近江で病死。

1514年
亀王丸、播磨守護・赤松義村の庇護下で養育される。

1521年
播磨守護赤松義村が、播磨守護代浦上村宗に敗北
亀王丸は、浦上村宗の庇護下におかれる。


幕府内で、大内義興が領国へ戻り、
将軍義稙が阿波に出奔。


後柏原天皇即位式細川高国の準備により挙行される。
践祚は1500年)


政権を握った管領細川高国が、空席になった将軍の座をうめるため亀王丸を上洛させる。

亀王丸から義晴に改名。

義晴、第12代将軍に就任する。


1526年
後柏原天皇崩御
後奈良天皇践祚
即位式は10年後となる)


同1526年
細川高国家臣の
  細川尹賢(ただかた)
   VS
  香西元盛
元盛が誅殺される。

元盛の兄弟が細川高国に離反し、内紛に発展。


細川澄元の遺児 六郎(晴元)が、亡父の仇である細川高国を打倒すべく阿波で挙兵。


1527年
「 桂川原の戦い」

管領細川高国細川晴元の連合軍に大敗。

将軍義晴は高国らとともに京から近江に落ち延びる。

評定衆や奉行人まで逃げ出したため、幕府の政治機能が麻痺する。


細川晴元は、足利義晴の弟・足利義維(よしつな、堺公方)を擁立して高国に対抗。

これを知った将軍義晴は、5、6万人の軍勢で近江坂本に布陣、義維軍と合戦するが、敗れて朽木に逃れる。


1528年
元号が大永から享禄に改元される。


1531年
「大物崩れ」(天王寺合戦とも)
細川高国細川晴元に討たれる。

細川晴元足利義維が対立、義維は追放される。


1532年
元号が享禄から天文に改元される。


1534年
将軍義晴は細川晴元と和睦して上洛。

畿内の勢力争いは続き、将軍義晴は諸勢力を渡り歩き、京都と近江の行来を繰り返す。

(1543年に、ポルトガル船が種子島に漂着して鉄砲が日本に伝来する)


1546年
義晴は、息子義輝に将軍職を譲り、
足利義輝室町幕府13代将軍に就任。
烏帽子親は、管領代として六角定頼が務めた。


1547年
義晴方だった六角定頼が離反して細川晴元に味方する。

摂津でも義晴方だった薬師寺元房ら諸将が細川晴元方になる。

細川、六角連合軍に攻められた義晴は再度近江坂本に逃れる。

その後、細川方と和睦。

義輝親子は京都へ戻る。


1549年
細川晴元三好長慶が、三好政長の処遇をめぐって対立。

義晴は細川晴元に協力する。

「江口の戦い」で三好政長が戦死し細川晴元が敗れる。

義晴父子、晴元、近衛稙家らは再び近江朽木谷に逃れる。

義晴は、京都を奪還するため、慈照寺の裏山に築城を開始するが、病がちになる。

1550年
義晴、近江国穴太(あのう)で病で亡くなる。(享年40歳)



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