(45)あはれとも 言ふべき人は 思ほえで

百人一首45番歌

あはれとも
言ふべき人は
思ほえで
身のいたづらに
なりぬべきかな

拾遺集」恋5-950

by 謙徳公
藤原伊尹(これまさ、これただ)の諡
924~972
26番歌・藤原忠平の孫
50番歌・藤原義孝の父

哀れだと言ってくれる人は誰一人として思い浮かばず、我が身は空しくて死んでしまいそうです。

身のいたづら=
身を無駄にする=
死んでしまう

拾遺集」の詞書によると、言い寄った女性がつれなくて、逢ってもくれないから詠んだ歌だそうです。

 

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作者・藤原伊尹は、右大臣藤原師輔(もろすけ)の長男。

伊尹の娘が冷泉天皇の女御となり、その息子が親王(のちの花山天皇)となったため、伊尹は右大臣から摂政、太政大臣へと昇進しましたが、翌年、病気により49歳で亡くなりました。

邸が一条にあったので、一条摂政とも呼ばれました。

伊尹は、和歌所の別当として、梨壺の5人を率いて、後撰集の選定に関わりました。

 

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伊尹の薨去後、すぐに息子・義孝も亡くなり、その息子・行成(伊尹の孫)は2、3歳だったため、外祖父・源保光の庇護を受けて成長しました。

藤原行成は、蔵人頭に抜擢され朝廷で活躍し後に権大納言に昇進しました。
とても能筆で、三蹟と呼ばれる当時を代表する書道家の一人となりました。

政治の実権は藤原伊尹の弟・藤原兼家が掌握、伊尹の子孫は書道の家系として受け継がれていきました。

行成の書は、現在、国宝や重要文化財に指定されているものもあります。

 

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冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇

一条天皇の即位には、「寛和の変」と呼ばれる政変がありました。

寛和の変=かんなのへん=
藤原兼家花山天皇の退位、出家を画策し、兼家の孫の一条天皇を即位させたという説がある政変

藤原氏同士の権力争いが色々あったようです。

藤原兼家は、藤原道長の父であり、藤原定家の先祖です。

45番歌作者・藤原伊尹の孫、藤原行成(56歳)と
藤原定家の先祖・藤原道長(62歳)は同日に薨去したそうです。


 

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