『百人一首一番歌』
秋の田の
仮庵(かりほ)の庵の苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は露にぬれつつ
天智天皇(てんぢてんのう)作
(作者は天智天皇ではないとも言われます。)
秋の田に、急ごしらえで作った小屋は、苫(とま=草を編んだもの)の編み目が粗いので、私の袖は露にぬれています。
1番歌の作者とされている天智天皇は、第38代、飛鳥時代の天皇です。
即位前の名前は、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)です。
聖徳太子の死後、弱体化しそうな天皇中心の政治(律令体制)を強固にした人です。
日本で初めての元号「大化」を使い始めた人です。
大化の改新、政治改革した人です。
そして、天智天皇と一緒に活動した人で、有名な人が、中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。
天智天皇に藤原姓を賜り、藤原鎌足になります。
平安時代に巨大勢力をもつ、あの藤原氏の始祖です。
「小倉百人一首」は、藤原定家が選んだ和歌に手を加えて整えられたと考えられています。
最初は、藤原定家が、息子の奥さんのお父さんの別荘(小倉山荘)の襖を飾る和歌を選んだことから始まったそうです。
藤原定家は、天智天皇が中臣鎌足に藤原姓を下さった人なので 百人一首の1番に天智天皇を選んだのでしょうか。
「今昔物語集」巻22-1
「大職冠、始めに藤原の姓を賜はれる」に、藤原姓の始まりの逸話が書かれています。
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672年の壬申の乱以降、天智天皇の系統は勝者の天武天皇系に移りました。
奈良時代末期頃に天智天皇系の光仁天皇が即位してからは天智天皇系が続きます。
光仁天皇の皇子の桓武天皇は平安京に遷都し、また、桓武天皇の皇子達からは桓武平氏や嵯峨源氏が登場します。
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百人一首1番歌の天智天皇は、平安時代の始祖であり、源平藤橘の四氏族を経て、100番歌にて平安時代は終焉を迎え、定家の生きた時代鎌倉初期になります。
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百人一首、
子供の頃、家族で坊主めくりをした時、
十二単のお姫様が出ると とても嬉しかったのを想い出します。
百人一首は、飛鳥時代、670年の天智天皇から 鎌倉時代、順徳天皇までの約550年間に詠まれた和歌を 年代順に100歌 編纂したものです。
21ある勅撰和歌集の中の、10の和歌集から選ばれています。
古今和歌集 ~ 24首
後撰和歌集 ~ 7首
拾遺和歌集 ~ 11首
後拾遺和歌集 ~ 14首
金葉和歌集 ~5首
詞花和歌集 ~ 5首
千載和歌集 ~ 14首
新古今和歌集 ~ 14首
新勅撰和歌集 ~ 4首
新後撰和歌集 ~ 2首
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百人一首に入っている皇族の歌
男性 8首
女性 2首(持統天皇、式子内親王)
68番歌 三条院 第67代天皇
100番歌 順徳院 第84代天皇