准勅撰集「新葉和歌集」

新葉和歌集
勅撰和歌集の中で、
准勅撰集とされました。

撰集を発案したのは、
後醍醐天皇の第2皇子・宗良親王
南朝最後の征夷大将軍

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宗良親王は、出家して尊澄法親王(そんちょうほっしんのう)といい、
1330年に天台座主となりました。


元弘の乱のときに、讃岐に配流され、
建武の新政後に再び座主となりましたが、新政崩壊後は還俗し、
遠江信濃、越後などで足利方北朝と戦い、1352年に後村上天皇により征夷大将軍に任じられました。


転戦中も折に触れて京の二条為定に歌を贈りましたが、
北朝方の「風雅集」「新千載集」「新拾遺集」には南朝歌人の歌は収載されませんでした。


1374年に吉野に赴いた宗良親王は、南朝方の歌も載せた「新葉和歌集」の撰集に着手しました。


1381年、長慶天皇から綸旨が下され、整備を加えて奏覧となりました。


宗良親王の個人的な発意からの撰集、
京以外の行宮(あんぐう)での撰集、
綸旨に「擬」(なずらう、匹敵する)とあること、などから、准勅撰集とされています。


新葉和歌集」奏覧後、
1380年代の前半、宗良親王は病により70歳くらい(不明)で亡くなったそうです。

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20巻約1420首


第1巻 春上
おなじ心「帰雁(きがん)」を

帰る雁(かり)
なに急ぐらん
思ひ出も
なきふるさとの
山と知らずや

by 宗良親王


幼少期に育った京、父後醍醐天皇宗良親王も排除され、武家北朝によって支配されている。

帰り急ぐ雁よ、お前と違って私には思い出などない故郷の山とは知らぬのだろう。

転戦を重ねてきた宗良親王の心を詠んだ歌。

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「新葉集」には、吉野での歌合にて詠まれた歌も収載されています。

239
五百番歌合に

しげりあふ
桜が下の
夕すずみ
春はうかりし
風ぞまたるる

by 右近大将長親


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370
遠き国に侍りけるころ「壔衣(とうい)を聞く」という心を詠める


聞きなるる
契りもつらし
衣うつ
民の伏せ屋に
のきを並べて

by 尊良親王後醍醐天皇の第1皇子)


元弘の乱1332年、鎌倉幕府北条氏に捕われた尊良親王は、土佐の畑に配流されました。
その時の歌と思われます。

尊良親王は、足利尊氏と戦い、金ヶ崎で敗北して新田義貞の子らと共に落命しています。


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新葉和歌集 序より

天地ひらけはじめしより
あし原の代々に変わらず
世を治め、民を撫で、志をいひ、心を慰むるなかだちとして、
わが国にありとしある人、
あまねくもてあそび
盛りに広まれるは
ただこの歌の道ならし。


これによりて
奈良の葉の名におふ帝の御時より
正中のかしこかりしおほん世に至るまで
撰び集めらるる跡、
十余り七たびになんなれりける。


奈良時代天皇から後醍醐天皇まで、撰び集められた勅撰集は17集になった」と書かれています。

「勅撰集」は「万葉集」を入れて、「古今集」から後醍醐天皇の下命による「続後拾遺集」までの17集であると。

北朝の「風雅集」「新千載集」「新拾遺集」を無視しています。


『これは「三くさの宝」(三種の神器)を受け伝えている吉野朝廷こそ正統な朝廷であるという理念によっているからである』
中世和歌集(小学館)より。

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和歌を愛した宗良親王、最後の勅撰集「新続古今集」に『詠み人知らず』として3首ほど入集しているそうです。

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新葉集・夏の歌から3首


都だに
さびしかりしを
雲はれぬ
吉野の奥の
五月雨のころ

by 後醍醐天皇


思ひやれ
木曽の御坂も
雲とづる
山のこなたの
五月雨のころ

by 宗良親王


夏草の
しげみが下の
埋もれ水
ありと知らせて
行く蛍かな

by 後村上院


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南北朝室町時代は重なっています

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